十勝開墾株式会社(合資会社)農場畜舎

合資会社(新)a (1).jpg

熊牛に最初の集団移民を募集したのは、十勝開墾合資会社でした。最初の入植者が入地する前年の明治30年、男爵・渋沢栄一らが十勝川沿いに3,500万坪の貸付予定存置を出願し、許可されたのがきっかけです。

渋沢栄一の従兄、渋沢喜作は貸付予定存置を出願すると同時に、渡邊勘三郎に命じて農学士町村金弥と測量技量技師山本信の両名を現地に派遣し、地形地質調査と土地の選定に従事させました。その結果、土地利用の有望性を確かめることができ、明治31年に資本金100万円をもって合資会社を設立し、開墾へスタートを切りました。

農場長として町村金弥が就任しましたが、翌年辞任したため小田信樹が二代目農場長となりました。

0203★十勝開墾合資会社3代目 農場長吉田嘉市、スヱ夫妻.jpg

画像:3代目農場長 吉田嘉市とスヱ夫妻

こうして開墾の途に着きましたが、経営は困難を極め事業計画は思うように進みませんでした。そのため出資者の脱退が相次ぎ、創業3年後には渋沢栄一、渋沢喜作、渋沢篤二、大倉喜八郎、植村澄三郎、和久伊兵衛の6名だけが残りました。そのため事業を縮小せざるを得ず、資本金を19万円に減らし、貸付地の一部を返還すると同時に、移民奨励を目的に明治35年より小作人規定を改め、移民に土地を譲渡する方法に切り替えました。その結果、次第に小作人が増えていきましたが、明治37年に日露戦争が始まり、働き手の成年男子の出征が相次ぎ、再び事業遂行に困難を来しました。そこで移民募集を強化し、どうにか開墾事業を継続することができました。

大正5年には組織を変更し、株式会社となりました。

熊牛農場厩舎 (1).jpeg

建物(牛舎)について

熊牛原野の開拓に大きな役割を果たした「十勝開墾会社」の当時の面影を伝えるのが、渋谷農場で現役として働き続ける牛舎です。

木造二階式、床面積約400㎡のこの牛舎は大正8年、当時の開墾会社農場長、吉田嘉市が札幌農学校(現北海道大学)に依頼して建築したキング式牧舎です。キング式は二階の開口部から牧草を収納、階下には牛床が一列に並び、前に飼養槽、背後に通路が設けられ、ふん尿の排出や清掃を行う仕組みで、清水はもちろん十勝でも数少ない最新式牛舎でした。開設時には遠くから見学に訪れる方も多かったそうです。昭和8年、開墾会社が熊牛牧場を小作者に解放した際、牛舎も乳牛とともに飼育係職員をしていた渋谷竹治に払い下げられました。

以来、牛舎は今も渋谷牧場4代目の渋谷正則さんによって利用されています。古びた外観は今も昔のままですが、内部を改装された牛舎には、乳牛55頭が飼育されています。

所在地

北海道上川郡清水町清水町字熊牛11番地

この情報に関するお問い合わせ先
教育委員会社会教育課 電話番号:0156-62-5115