ドイツ人模範農家 コッホの住宅

コッホの家.JPG

1 923年(大正1 2)、北海道庁は甜菜を北海道畑作農業の主要作物とするため、甜菜を組み入れた農業の先進国から模範農業者を招いて、その農業経営の展示的役割と波及効果を期待し、寒地畑作経営の改善と農業者の技術の向上を目指しました。

同年、在ドイツ日本大使館を通じてクライン・ヴァンツレーベン製糖会社と交渉し、同社の推薦により、フリードリッヒ・コッホが選はれ、10月に妻と4人の子どもの一行6人が明治製糖株式会社清水工場と北海道庁が共同で用意した字下佐幌基線70番地の住宅に住み、約10 ヘクタールの土地の耕作を始めました。

koch.jpgコッホと妻のベルタ

コッホは小学校卒業後、地元の製糖会社の甜菜部に入り、ビート栽培技術者としての腕を磨き、会社でも高く評価されているところを、道庁から派遣された技師に見込まれて招聘されました。

コッホは当時43歳、第一次世界大戦に従軍し、頬と足を負傷し鉄十字章(ドイツで戦功のあった軍人に対して授与された勲章)を持っています。軍人色の強かった彼は、招聘を喜んで受け、妻ベルタ(43歳) と長男オットー(20歳)、 次男リヒャルト(18歳)、長女エレーナ(16歳)、次女へルタ(15歳) の6人家族で来日しました。

コッホの出身地であるKlein Wanzlebenは、ドイツで最も古い製糖工場が、1838年に操業を開始するなど、サトウキビの繁殖と加工に密接に関連し、現在も全欧において非常に近代的な製糖工場、Nordzucker株式会社が拠点を置く「砂糖村」として知られています。村の総面積は、8.64km²。約1,660人の住民が住んでいます。(ヴァンツレーベン町公式サイトより)

コッホと息子2人の3人が主として甜菜の農業経営にあたり輔作形態の技術指導を行い、情熱と誇りを持ったその営農の独創性が地元農家に大きな影響を与えたと言われています。

住宅・畜舎は、ドイツ農家の設計図を参考にして建てられ、住宅は洋風木造2階建て24 坪で、暖房はロシア式ペチカと寝室には小さなストープが設備され、畜舎は40坪で2階に倉庫を兼ねるものでした。

コッホ邸宅.jpeg

昭和39年度北海道教育委員会「開拓記念物等調査カード」には、次のように表記があります。

建造物の概要:和洋折衷二階建

構造・設備概要:基礎=石束、床=畳・フローリング、外壁=板壁、内壁=漆喰壁、屋根=トタン葦、天井=漆喰天井、建具=ドア

また、吉村眞雄氏著「北海道に於ける獨逸人経営の模範農家」には、この建造物について次のように触れられています。

会社は道庁の命を受け彼らのために、住宅一棟、農具場兼作業場一棟、馬匹、畜牛、家禽(鳥類の家畜)舎兼

穀倉一棟、養豚舎一棟を建築した。住宅は二階建であって、一階は台所、湯殿(風呂場)、食堂、客間、夫婦寝室、二階は兄弟の寝室、姉妹の寝室、地下に馬鈴薯その他の置場があって、暖房としてロシア式ペーチカ(暖炉兼オーブン)と、寝室には小さなストーブを設備した。このように書けば、かなり壮麗のように思われるが、木材の大部分は他の取壊し屋材を用いたに過ぎない。

畜舎は下に畜牛五頭と馬匹二頭と養鶏場、ならびに畜牛の濃厚飼料の製造場、屋上には牧草その他の飼料類置場となっている。農具置場兼作業場は土間であって、これに農具類を整然と配列することが出来るようになっている。養豚場は掘立小屋に過ぎない。農具並びに動物は、彼らの選定に任せることにして到着までは準備しなかった。

コッホの住宅(新)a.jpg

1 930年(昭和5)のコッホの帰国後、住宅は民間に払い下けられた後、1974(昭和49 )に改築され、現在に至ります。

所在地

北海道上川郡清水町字下佐幌基線70番地

沿革

1923年(大正12年) 明治製糖株式会社が住宅を建設。コッホが本町にて農業経営開始、技術指導にあたる。

1930年(昭和5年) コッホが7年間の技術指導を終え、ドイツに帰国。

1974年(昭和49年) 一部改築

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教育委員会社会教育課 電話番号:0156-62-5115